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【番外】サッカーが紡ぐブラジルとニイガタ

2014年6月20日

はじめまして、新潟市在住の市川と申します。ブラジルでW杯が行われている真只中なので、みなさんにブラジルと新潟にまつわるエピソードを紹介させていただきます。

 
私の祖母は明治43年、五泉市に生まれた。祖母の妹の一人は今から80年程前に若くしてブラジルに渡った。祖母や他の妹弟もそんな妹にずっと逢いたがっていたが、地球の裏側のブラジルに行く事は困難であった。生き別れてから60年後そんな祖母達に嬉しい知らせが届いた。祖母の妹は3人の男の子を授かった。私の遠い記憶では次男がイタリア系の女性と結婚していたと記憶している。次男の娘(以後孫娘)はサンパウロFCのある選手と結婚していた。その選手は1992年秋に国立霞ヶ丘競技場で開催されるトヨタカップに出場するために来日することになり、孫娘も当初は一緒に来日する予定だったが、妊娠が分かり来日を果たせなかった。祖母はとてもがっかりしたことだろう。しかし再び奇跡が起きた。サンパウロFCは翌1993年にもトヨタカップの出場を勝ちとり、今度は孫娘と赤ちゃんも一緒に来日した。

実の妹との再会は果たせなかったが、その孫娘と対面した祖母は本当に嬉しそうだったという。当時見せられた写真にはブラジルチームが滞在するホテルに三浦カズをはじめ当時のV川崎の選手が多く訪れていて、彼等に囲まれて一緒に写っている祖母は本当に幸せそうだった。祖母にとって彼等は一体誰?といった感じのおしゃれな集団だっただろう。この対面については当時の新潟日報にも取り上げられていた。サッカーという競技がなければ、トヨタカップが日本で行われていなければ、このような奇跡的な対面はあり得なかったと思う。

その選手の名前はゼッチという。ゼッチ氏はその後GKとしてセレソン入りを果たし、94年アメリカ大会のW杯のメンバーに入った。ゼッチ氏は祖母に対し、『いつかニイガタを訪れたい』と語ったという。

DSCF3489.JPG                ゼッチ氏から祖母へのメッセージ

その後妹も亡くなり祖母も2003年3月に他界し、ゼッチ夫妻とのニイガタでの再会は永遠に無くなった。しかしその縁を我がアルビレックス新潟が紡いでくれていた。 

1993年当時、新潟にプロのサッカーチームが誕生することさえ想像出来なかった時代から僅か10年後、2003年秋にJリーグの一部昇格を決めたアルビレックス新潟に、2005年5月4日ビックスワンにずんぐりとした選手が登場した。私も4万人の大観衆と共にその選手の名前を叫んでいた。会場の雰囲気は最高潮に達していた。彼は初登場でいきなりFKを決めた。今でもあの時の興奮を忘れられない。このブラジル人選手はセレソンにも選ばれたアンデルソン・リマという。

この日からしばらく経ったある日、テレビでリマ選手を語るブラジル人がいた。その人はリマの所属していたサンカエターノの監督で、なんとあのゼッチ氏だった。日焼けして最初は別人かと思ったが、やはりあのゼッチ氏だ。引退後は指導者になっていたのだ。

インタビューでゼッチ氏は、リマはチームに必要な選手だが『ニイガタ』へは喜んで送り出したと言っていた。私はゼッチ氏がニイガタを忘れてはいないと確信し小躍りした。実家へ赴き納戸からゼッチ氏の写真を探しだし、祖母の遺影写真の隣に飾った。
 
私は今、ゼッチ氏に代わりリマ氏がブラジルとニイガタとのサッカーを紡いでいると感じる。サンカエターノのゼッチ監督時代のリマとマルシオリシャルデス、リマ氏の指導を受けたレオシルバがニイガタに来て活躍してくれている。彼らの活躍がなければ新潟はJ1に残って居なかったかもしれない。近い将来、ゼッチ氏がいつか訪れたいと言っていたニイガタに、リマ氏と一緒に登場する妄想を抱きながら、N79でレオシルバの活躍に心躍らせています。
 


市川 淑衛
新潟市出身。1998年からアルビレックス新潟のファンとして、2001年7月からはサポーターとしてS席(現在のSS席)を経て、今はN席で応援を続ける。